江戸時代の人口Information of Local History
江戸時代の全国人口の推移
日本の人口については、私の先祖調査講座の中で話していますが、ここでは戦国時代から明治時代にかけての人口推移を掲載します。
年 |
全国人数(人) |
天正8(1580)年 |
18,000,000 |
享保6(1721)年 |
26,065,425 |
寛延3(1750)年 |
25,917,830 |
天明6(1786)年 |
25,086,466 |
文化元(1804)年 |
25,621,957 |
文政11(1828)年 |
27,201,400 |
天保5(1834)年 |
27,063,907 |
弘化3(1846)年 |
26,907,625 |
明治5(1872)年 |
33,110,825 |
※関山直太朗「近世日本の人口構造」より
この人口にはちょっと留意しておく点が2つあります。
というのも
一つは、「調査方法は各藩に任せられていた」ことです。
各藩それぞれ、従来から各藩で行ってきた方法でカウントしました。
乳幼児死亡率の高かった時代、ある藩では8歳以下をカウントしなかったり、15歳以下をカウントしない藩もありました。
もう一つは、各藩は「支配下人口(農民など)を調査したものである」ため、この人口には武家の人口が含まれていません。
そのため、各人口は過少であるという点です。
武家人口については、多くの研究者の推計値がほぼ一致していて、約500万人と言われています。
これを含んで考えると、例えば、享保6年では、調査人口約2600万人に除外人口500万人を加えると、総人口は3100万人となります。
弘化3年では、調査結果は約2691万人ですので、除外人口を加えると幕末の総人口は約3200万人となり、明治に戸籍作成のために調査された3300万人につながります。
なお、人口推移を見ると、最初の調査から225年かかってわず約90万人しか増えていないことが分かります。
江戸時代の人口は常に自然災害を受けてきました
自然災害の中では、「飢饉」にが人口変動に与えた影響が最も大きいものでした。
飢饉とは「凶作の結果」です。
凶作は、冷害、干ばつ、洪水などによって発生します。
つまり、飢饉は異常気象によって引き起こされるものです。
江戸時代には四大飢饉と呼ばれ大きな飢饉がありました。
寛永の大飢饉 寛永19年(1642年)〜寛永20年(1643年)
享保の大飢饉 享保17年(1732年)
天明の大飢饉 天明2年(1782年)〜天明7年(1787年)
天保の大飢饉 天保4年(1833年)〜天保10年(1839年)
現代は、仮に凶作が起こっても、食糧は海外からの輸入でまかなえます。「飢え死」ということは通常では起こりません。
江戸時代の人口増加が停滞したのは、このような自然の災害よるものでした。